日本ウルグアイ友好親善協会・ウルグアイ事務局提供

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・・ウルグアイの歴史・・
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アルティガス将軍像

1516年スペイン人ソリスが、ラプラタ川からウルグァイに上陸しヨーロッパに初めてウルグアイを紹介した。しかし、金銀を産出する山はなく、使役に当てるインディオの数も少なかったので、植民地を作る魅力に乏しかった。1536年には、ブエノスアイレスに植民地が出来たが、ラ プラタ川の北側沿岸には長く町が作られなかった。1624年、モンテビデオに牧畜をする人々の村落が出来た。


1492年コロンブスがアメリカ大陸に上陸してから、100年もたたないうちに、南北アメリカはスペインとポルトガルの植民地となった。 アメリカ大陸の先住民の文化は破壊され、住民は奴隷のように酷使され、人口は激減した。カリブ海域では、300万人が10万人に、メキシコ地域では、2,500万人が100万人に、ペルー地域では、1,200万人が200万人に激減した。金銀の鉱山開発、砂糖、コーヒーの農場開発のため、人が必要で、アフリカから多くの黒人達が奴隷として、連れてこられ、農場で働かされた。


ウルグアイは人手のかからない牧畜が主要な産業であったため、先住民インディオも、黒人もほとんど使われなかった。 1680年ブラジルのポルトガル人がブエノスアイレスの対岸コロニアの近くのサクラメントに町を建設すると、危機感を感じたアルゼンチンのスペイン総督が1726年モンテビデオに砦を築き、都市計画を行い、教会、政庁、公園を作り、区画整然とした道路を作り、モンテビデオの町を建設した。今でも、当時の建物がたくさん残っている。


1776年、モンテビデオは、スペインのブエノスアイレスを首都とする、ラ プラタ植民地の重要な街の一つとなった。1777年にはサクラメントもスペイン軍に占領され、スペイン領となった。この頃、スペインより牛、羊、馬が移入され、放牧された。囲いが作られなかったので、多くのものは野生化した。それらの家畜はウルグアイの土地の気候風土に合ったため繁殖した。又、先住民のインディオ各種族のなかで、勢力が大きかったチャルーア族は、その性格が非常に勇猛果敢で、スペイン人に激しく抵抗したため、全滅させられ、残ったインディオ達はブラジル、パラグアイなどに逃げ出した。現在、ウルグアイにはインディオの子孫はほとんど残っていない。


1807年ナポレオンのポルトガル侵略によってポルトガル王家一族はブラジルに逃れた。1808年ナポレオンは実兄をスペインの国王にした。スペイン全域で反ナポレオン闘争が起こった。中南米全域の植民地にもそのことが伝えられると、各地で独立運動が起こった。コロンビア、ペルー、地域では、“南アメリカ解放の父”と呼ばれている“シモン ボリーバル”が独立運動の最高指導者として戦いスペインからの独立を勝ち取った。1819年ボリーバルはコロンビアの大統領になった。アルゼンチンでは“ホゼ サンマルティン”が独立軍を指揮して戦った。サンマルティンはチリからペルーまで行って、スペイン軍と戦い、チリ、ペルーの独立を助けた。アルゼンチンは1816年7月9日ブエノスアイレスで独立宣言がなされた。ブラジルは1822年9月7日独立宣言、皇太子ドン ペドロはブラジル初代皇帝となって、1889年まで帝政ブラジルが続いた。ハイチ、メキシコ、ブラジル、が君主国家となり、その他の国々は共和制となったが、それぞれの国で、中央集権体制にするか、連邦制にするかで、大きな政治的論争となった。そして、多くの国々で中央集権的独裁体制がしかれた。ウルグアイでは、1811年ホゼ. アルティガスが、ブエノスアイレスの中央集権的政治に反対して、植民者達と共に独自の独立運動を起こし、共和制政治を実現しようとした。モンテビデオのスペイン軍砦を攻略し、スペインからの独立を果たした。その後、ブラジルからポルトガル軍が侵略して来て、アルティガス将軍と独立軍は、モンテビデオを奪われ、パラグアイに逃れた。

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アルティガス将軍の“自分の指導者として立つ権威は皆さんによって与えられたものである。”という言葉は今でも国会議事堂の中に刻まれている。

 

アルティガス将軍は“自分の指導者として立つ権威は皆さんによって与えられたものである。”と言って、独立軍を指揮したので、この言葉がウルグアイの民主主義の根本になっている。今でも、アルティガス将軍はウルグアイ建国の父として、あがめられている。


その後、1822年ブラジルはポルトガルから独立し、ウルグアイをブラジルの領土の一部であるとして、シスプラチナ県と名付けた。1825年、アルティガス将軍の副官であったアントニオ・ラバジェハ将軍が、アルゼンチンの援助を得て、33人の独立運動の勇士と共にコロニアの近くに再上陸し、住民とともにブラジル軍と戦い、モンテビデオを奪回した。その時、国旗に“自由か死か”と書いてそれを掲げて戦った。この旗は今でも正式なウルグアイの三つの国旗の一つとなっている。最初の国旗は、アルティガス将軍の独立運動の時の国旗、そして現在の国旗と三つの国旗がある。


1825年8月25日、ラバジェハ将軍と33人はモンテビデオにおいて、ウルグアイはブラジルから分離独立することを宣言した。1827年ブラジルはウルグアイに宣戦布告して全面戦争に入った。ウルグアイはアルゼンチンの援助を得て、ブラジルとの戦争に勝利しブラジル軍を追い返した。ブラジル側は8,000人の死者をだした。1828年には、イギリスの調停によって、ブラジル、アルゼンチンがウルグアイを両国の緩衝地帯として独立させることを承認した。


1830年7月18日憲法が発布され、ウルグアイは正式な独立共和国として成立した。この時ウルグアイの住民は74,000人に減っていた。 20年に渡る独立戦争で多くの人々が死に、多くの家庭は破壊され、ほとんどの馬、牛、羊、などの財産も失われた。


最初の大統領はホゼ リベラで、コロラド党の初代党首、モンテビデオを支持基盤としていた。イギリスとフランスの支持を受け、後にブラジルがコロラド党を支持するようになった。第二代の大統領はマヌエル オリベで、ブロンコ党の初代党首、地方都市を支持基盤にしていた。 1843年 ~ 1851年。アルゼンチンの支持を受けていた。ブラジルとアルゼンチンの代理戦争のように、コロラド党とブロンコ党は戦った。イタリア、スペインその他のヨーロッパの国々から多くの移民がウルグアイに来た。牛、羊、も多くヨーロッパから輸入された。1900年には、ウルグアイの人口は100万人になった。
1903年 ~ 1915年の間に、ホゼ・バジェ・イ・オルドニュスは2回大統領となり、民主主義の基盤を作り、社会福祉政策を推進した。1960年代後半から、1970年代前半にかけて、共産主義極左暴力革命グループ “ツパマロス”を中心としたテロ活動が激化し、政情不安となった。1976年軍の力を背景にしてボルダベリー大統領は国会を閉鎖し、軍事政権となった。


1984年11月、民政移管するため、大統領選挙が行われ、フリオ・エリア・サンギネッティ大統領(コロラド党)が当選した。1989年11月に行われた大統領選挙では、アルベルト ・ラカジェ大統領(ブロンコ党)が当選した。1994年11月 再び、大統領選挙が行われ、サンギネッティ大統領(コロラド党)が再選を果たした。

 

 


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©杉山孝、日本ウルグアイ友好親善協会

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